『太宰治の辞書』/北村薫 [新潮社]
〈作品紹介〉
時を重ねて変わらぬ本への想い……《私》は作家の創作の謎を探り行く――。芥川の「舞踏会」の花火、太宰の「女生徒」の“ロココ料理”、朔太郎の詩のおだまきの花……その世界に胸震わす喜び。自分を賭けて読み解いていく醍醐味。作家は何を伝えているのか――。編集者として時を重ねた《私》は、太宰の創作の謎に出会う。《円紫さん》の言葉に導かれ、本を巡る旅は、作家の秘密の探索に――。《私》シリーズ、最新作!
単行本
以下、円紫さんと私シリーズ
感想は追記にて
〈はじめに〉
北村薫さんのデビュー作であり、日常の謎の流行のきっかけ(?)となった『空飛ぶ馬』から始まった「円紫さんと私」シリーズ(Wikipediaには「円紫さんシリーズ」、新潮社の紹介文では「《私》シリーズ」と書かれています)。
1998年に5作目『朝霧』が発売されて暫く間が空いていましたが、17年ぶりにシリーズの新作が発売されました。版元は、東京創元社から新潮社になっていますが、やはり北村薫と言えば、このシリーズ、と思うだけに、嬉しい限りです。
〈実際の年数と同じ時間を過ごした私〉
まず気になるのは、主人公である「私」がどうなっているか、ということ。作中で
学生の頃、この階段を同じように上がって行った。肩掛けの黒いバッグに『新潮日本古典集成』の一冊が入っていた。あれがもう、二〇年以上前のことだ。(P.7)
と書かれていることから、私も私たちと同じ時間を過ごしてきたようです。結婚して中学生の子どもを持ち、今も出版社でバリバリと働いてきた「私」の新しい物語。シリーズを読んできたものとしては、何となく嬉しくなってしまいます。その彼女が今回は(も?)本を巡る旅に。印象としては、『六の宮の姫君』と同じ系統の物語でした。
最近、本の帯の売り文句でお馴染みの読書メーターの感想だと日常の謎を期待していたのに、という意見も見られるようです。しかし、私はこの物語はとても「北村薫さんらしい」作品だったと思います。
「本を読む面白さ」
北村薫さんは、デビュー作の『空飛ぶ馬』で「日常の謎」の面白さを鮮やかに描きました。その後、日常の謎の作品が増え、今や一つのジャンルとして定着しているのはご存じの通りだと思います。
そして、『六の宮の姫君』。北上次郎さんが「書誌学ミステリーといっていい」なんて書いていますが、論文を書くときのお手本と言われるような内容で、芥川龍之介の『六の宮の姫君』が生まれた理由を推理する物語を描きました。この物語、今の時代に発売されていたら、「ビブリオミステリ」と言われていたのかもしれません。この物語では、物語を巡る旅の面白さを描きました。
振り返って見ると、北村薫という作者は私にとって物語の楽しみを提示してくれた作家であります。
「小説が書かれ読まれるのは、人生がただ一度である事への講義からだと思います。」これは北村薫さんの有名な言葉です。オタク界隈だと、2012年にアニメ『リトルバスターズ!』の中で、作中のキャラでこの言葉を使っていましたし、平坂読さんの『妹だけいればいい。』の中でもこの言葉が使われていました。
北村薫さんは大変な読書家で有名です。その作者がこの物語で描きたかったのは、「物語の色々な楽しみ方」だったのではないかと思います。
物語を「読む」
前述の「小説が書かれ読まれるのは、人生がただ一度である事への講義からだと思います。」という言葉。これは、物語の登場人物の人生を楽しむことで、自分以外の人生を楽しむ、という読書のあり方を示した言葉でしょう。それに対して、この本で示されているのは、「作家同士のつながりを読む」「作中の背景にあるものを読む」というような、ある意味文学の研究に近いような読み方ではないでしょうか。私は文学部出身ではないので、こう言い切っていいかどうか悩ましいのですが。
「作家は、虚構の形でこそ、最もよく自己を語る。」(P.215)
作中で、《私》が太宰治についてこう語る場面があります。これは、まさしく北村薫という作家のことも表した言葉でもあるでしょう。
作中では、芥川龍之介の『花火』、太宰治の『女生徒』について取り上げられ、それに関する物語など、多くの物語が取り上げられています。そして、それについての感想や素晴らしさ、疑問点や反論点、或いは気になる部分が、《私》の言葉として語られます。これは当然、作者である北村薫さんの代弁であるはずです。だからでしょうか。私は物語を読んでいるうちに、「まるで本の面白さ、楽しみ方というテーマの講演会を聴いているようだな」と感じました。
そして、この言葉を目にして「あぁ、北村薫さんは作家としての形を最大限に生かして、本の面白さを語ったのか」と感じました。この本のエピグラフに
本にーー
と書かれていますが、北村薫さんの本に対する思いを凝縮した一冊であると思います。デビュー作で日常の謎を示した作者が、あれから26年経った今、本にーー捧げて物語を綴ったのは面白いです。
十人十色の本の楽しみ方
色々なことを書いてきましたが、これはあくまでも、私のこの本から感じた楽しさ。本作の中で、以下のような言葉がありました。
小説は書かれることによっては完成しない。読まれることによって完成するのだ。ひとつの小説は、決して《ひとつ》ではない。(P.56)
「勿論、《一+一は?》といった問題ではない。唯一無二の答えが答えが出るようなら、小説とは言えない。それでも、こういったことをあれこれ考えるのも、作品を読む面白さですね」(P.161)
これこそ、本の楽しみ方ではないでしょうか。別に人それぞれ感じ方、楽しみ方があっていい。賛否両論でいい。それこそが、小説であり、十人十色の感じ方があるからこそ面白いんだ。
これからも数多くの作品が生み出されていくでしょう。全ての物語を楽しむことはできません。それを悲しいと思うこともありました。しかし、自分の触れられる分だけ、自分なりの楽しみ方で物語に触れられたらいいじゃないか。そう思えるようなお話でした。
私は、もう少し視野を大きくして読書ができるようになれたらいいなぁ、と思いました。
コメント 0